昭和48年09月21日 夜の御理解



 信心の稽古をさせて頂いておると、期せずして有り難くなれると言う所が、それはもう、理屈では無いのです。今あの幹三郎くんが話しておりました様に、さあ今日は何を話そうかと、その話す材料とてもない。一番はじめに奉唱した時に汗が出た事が有り難かったと。是は先ず実感でしょうけれども。なら何時も汗は出ておるでしょうけれども有り難い、それが出る度に有り難いと言う事ではないけれども。神様に打ち向かうたと言う事なのですね、だから神様が何かに触れた時に、この有り難いと言う物は頂ける。
 今日はその親教会の霊祭でしたから、若先生と幹三郎と一緒に連れましてからお参りさせて頂いたんですけれども。あちらに着かせて頂いて、すぐ神様へお届けをさせてもらい、御霊様へ御挨拶をさせて頂く途端に感動する。本当にもう期せずしてなんです。お互いがこう信心は理屈じゃないと言う事を言われますが、全く信心には理屈はありません。ただ通わせて頂き、一生懸命に稽古させて頂いてね、そこにその、是は普通では味わえない、有り難いと言う物が感じる。その有り難いと言う物を体験する。
 その有り難いと言う物を、育てて行くと言う事が信心なのですから。もう、信心で有り難くなるのじゃない。今日も帰らせて頂いて、丁度帰りましたら、あの二~三人の方がお参りになっておって。中で久留米の井上さん。あちらの、もう遠い御親戚ですけれども。子供の時分に、その叔母さんに大変お世話になった、というだけの事で亡くなられてから、十日十日のお祭りを必ずされる。
 所が今日は五十日祭だと分かっておるけれども、一つもその心の中にその思いが湧いて来ない。何かそうさせてもらいたいという衝動が起こって来ないね。それでもこう言う事では相済まんと思うて、あの神様にお願いさせて頂いておったら、あの野口さんの五十日祭の御案内を受けた。途端にあの有り難うなって、途端にさあお神酒も買うてこう、果物も買うてこうと言う風にまあ、様々お供え物を取り揃えてお参りして見えて。
 けれどもあれはやっぱ間違うとったじゃろうか、今日は親先生がお留守だったと言う事を、まあ言うならある意味がっかりしておる所へ、私が此処で丁度4時の御祈念十分前ぐらいに帰って来た。もう本当にもうああ、間違ってなかったというその喜びというか、おかげというかね。この叔母さんと言う方は、大体そんな方じゃなかったけれども、子供さんがおられなかったから、子供さんを貰うて、嫁さんを貰って、それが大変まあ強欲非道と言やあ強欲非道の方らしくて、もうだったそうです。
 ですからもう亡くなられる時に、その財産をその息子と嫁に渡して、渡す事がもう大変にその残念であられたという。もう亡くなるという何日前まで呉服屋を読んで呉服を買ったり、宝石を買ったり、指に手には指輪をこうはめて、あのそれは亡くなられたと言う事ですけれども。それでも矢張り井上さんは小さい時に、あのお世話になったというその事だけで、まあなさっておられる訳ですけど。
 今日私神様お届けして、御霊様その御挨拶をさせて頂きよりましたら、あの峰子さんのその真心と言う物がですね、例えば強欲であったと言うても、もう欲も徳もないと言う事を頂きましたよ。さあどんなに悪人であっても、素晴らしい善人の人がそれに触れた時です、もうその人の為なら、もう欲も徳もなくなるという、欲も徳もない程に有り難いという意味の御理解を頂きましたがね、もうそれは期せずして起きて来る感動であり、期せずして起きて来る喜びでありね
 それでも矢張り今日はもう、そんな気分も出らんから、もう今日は御無礼しとこうという時はそれまででしたけれども、そこを矢張りあの思いって行く所にです、そういう働きがある起こって来る。今日親先生の御挨拶の中に、この方の道はあいよかけよと、こう言うのがね、あの神様と氏子もそうである様に、私共と御霊様も矢張りあいよかけよの働きが出きおうて行かなければならないという話をなさいましたが。
 本当に例えば今日の井上さんなんかの場合でも、井上さんの心の中に、そういう実感が起こって来なかった。けどもこんな事じゃいけないというその思いに、ならたまたま野口さんの五十日祭の御案内を受け取られたという働きと云う物をです、矢張り神様の働き、または、御霊様の願いと言う様な物が、そこに感じられる。そこへ、井上さんの真心とが一つになって、決して賑やかでもなからなければ、華やかでもないけれども、ただ心ばかしの御霊様への御挨拶だけれども、きちっと五十日のお祭りの事が出けた。
 それが、なら御霊様をして、欲得がない程に、欲得を感じない程に御霊様を感動しておると言う事ですね。ですから信心させて頂いて、喜びと感動と云う物がです、私は起こらないならば、こげん私はあの味気ないものはないと思うね。たまにでも信心の喜びと言う物が感じられる。それが、楽しい。それを育てて行く事が、んなら信心だと言う事になるのですからね。どうぞ信心とは結局有り難うならせて頂く稽古と言う所に何時も焦点が置かれなきゃならないと言う事ですね。
   どうぞ。